
洪英植 像
郵征総局の初代総裁である洪英植(ホン・ヨンシク、1855-1884)の像があった。
前回の記事の最後で郵征総局が甲申政変(カプシンジョンビョン)と関わりがあると書いたが、今回はその政変について触れたい。
明治日本と朝鮮王朝末期の時代に、日本が朝鮮を開国させ、開国後の朝鮮では近代的改革を主張する開化派(あとで触れる金玉均(キム・オクキュン)や洪英植など)と、それに反発する守旧派が対立した。対立は壬午軍乱(1882年)、甲申政変(1884年)などの政変が繰り返される状態を生んだ。
1884年12月4日、急進開化派は郵政局開局の祝宴の席でクーデターを起こした。祝宴には開化派も参加していて、日本軍150人余りと開化派の兵力50人で高宗が避難した景祐宮を包囲し、昌徳宮では守旧派の大臣を処断して開化派は政権を奪取した、これが甲申政変である。
しかし開化派政権は三日しか続かなかった。閔妃(ミンピ)が密かに漢城に駐屯していた清軍1500人に出動を要請していたのである。開化派政権は清軍の攻撃を受けると、清の介入を阻むと約束していたはずの竹添公使が一方的に日本軍の撤兵を決めてしまったことで、力添えを失い、あえなく崩壊した。
金玉均らは日本に亡命し、洪英植は清軍によって処刑された。
1870年代から1890年代の朝鮮を巡る清朝とロシア帝国と欧米列強と日本の覇権争いは熾烈を極め、朝鮮は朝鮮でどのような国内改革をめざすのか、またどういった対外勢力と手を結ぶかで迷走せざるを得なかった目まぐるしい時代であるので、親露派と親日派に焦点を当ててコンパクトにまとめようとしても到底書き切れるものではない。
ただ、私がソウルに来たなら郵征総局を訪れたいと思うようになったのは、甲申政変を起こした中心人物の一人に開化派の政治家・金玉均がおり、彼は1881~84年にかけて日本を訪れ、福澤諭吉の協力を経て「漢城旬報」を創刊し、日本留学生派遣に尽力した人であったこと、そして、明治維新後の日本を見たことで金玉均や、洪英植らが開化派として朝鮮王朝を改革しようとし、近代国家の樹立を目指したもののその天下が三日しか続かなったことを知ったことが極めて大きい。










逓信記念館は郵政事業発祥の地なので、郵便に関する展示で占められていた。仕方ないといえば仕方ないが、個人的には甲申政変のことも思いつつ、展示を観賞した。
ソウルに戻って高速バスを下りた後に宿に帰ろうかと思ったものだが、郵征総局に行ってよかった。
































